髪結職の業祖に関しては「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられています。それによると、『亀山天皇の頃(1259~74)、京都北面の武士の藤原晴基は、御預かりの九龍丸の宝剱の紛失の責任から浪人し、子息の采女亮(うねめのすけ)とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関へ下り、往来の武士を客として月代そり髪結業を営み探索を続けた。晴基は弘安一年(1278)没し、采女亮は3年後この地を去った。~中略~十七代目の藤七郎は元亀三年(1572)、武田信玄に敗退中の徳川家康の天竜川渡河の案内をし、その功績で笄(こうがい・髷に横にさすかざり)と銀銭一銭を賜り、以後一銭職と称えるようになった。~後略~』と伝えられています。
つまり、采女亮が下関で髪結いの仕事をはじめたのが床屋の始まりとされているのです。
なお、采女亮が開いた店には床の間が設えられ、そこには亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから、人々は「床の間のある店」→「床場」→「床屋」と呼ぶようになったと言われています。
采女亮は建武二年(1335)七月十七日に没しましたが、昭和初期の頃まで、全国の理容・美容業者は敬髪と始祖の冥福を祈るため、毎月十七日を定休日としていました。
なお、十七日定休日にはもう一つの説があります。それは、天竜川渡河の案内をした徳川家康、後に江戸幕府を開いた征夷大将軍ですが、その家康の命日が十七日(元和二年四月十七日没)であったことに由来するというものです。いずれにせよ、十七日は髪結職にとっては特別で重要な日であったことだけは間違いなかったのです。
なお、山口県下関市の亀山八幡宮には、この地が床屋誕生の地であることを記念した「床屋発祥の地」記念碑がありますので、興味のおありの方はぜひ訪ねてみて下さい。
(住所は下関市中之町1-1です)