その1=横浜からスタートした理容店~誰が伝えたの~
安政5年(1858年)、日本はアメリカとの間で日米修好通商条約を締結しました。その後、各国との間で通商条約を結び、函館、横浜、長崎が開港されましたが、特に横浜は江戸に近い良港であったため急速に発展しました。
従って、当時の先端風俗、異国風俗は、横浜から起こったものが多く、そして、「文明開化はまず散髪から」という断髪風俗、それに伴う理容店(当時は理髪店といった)もまず横浜に起こりました。
後に、日本における西洋理髪の祖とされる小倉虎吉、原徳之助、松本定吉、竹原五郎吉らは、1丁の剃刀を携えて横浜港に入港した外国船に出入りして、月代(さかやき)で鍛えた剃刀の腕前をもって乗員の髭を剃っていましたが、日本でも散髪が流行する時勢が近づいていることに気がついて、しきりに外国船に乗込んでは西洋理髪師の手技を見習って技術を習得しました。
西洋床のはじまりとしては、小倉虎吉が、明治2年に横浜居留地の中国人アコン宅の階下に開店したのがその代表といわれています。
当時の時事新報(明治31年8月7日付け)にも「小倉虎吉率先して明治1、2年の頃、今の148番館即ち俚俗支那屋敷に散髪床を開き、神奈川県庁に出願して理髪営業鑑札48枚を受け、原、松本、竹原等と腕を揃えて専ら西洋流の散髪を始めたり。これを横浜における日本人散髪業者の元祖なり」と記されています。
このうちの1人、松本定吉のお墓は、現在、横浜市中区の日蓮宗妙香寺にあり、「元祖西洋理髪師松本定吉之墓」と記されています。残念ながら、小倉虎吉のその後は消息がハッキリしていません。
なお、居留地148番地・俚俗支那屋敷は、現在、横浜中華街にある「同發」のあたりの場所といわれています。
その2=出雲の西洋理髪ことはじめ~日本におけるベンチャービジネスの先駆け~
断髪令が発布された2年後の明治6年、島根県松江市で、元藩士の瀧野多三郎、半田紋之助によって散髪処が開業されました。2人は、明治3年、松江藩お雇いのフランス人教師・アレクサンドルとヴァレットが砲術や軍事指導のため来日した際に、フランス式斬髪技術を習得したのでした。
この史実は、島根大学山陰地域研究総合センターが発表した「瀧野多三郎-松江の散(斬)髪と西洋洗濯の創業者」(1987)に記されていますが、その根拠となる資料は松江市の理容店から発見されました。その資料は「松江の斬髪について」という回顧録で、明治6年からの松江市での理髪店の歴史が記されていました。
その回顧録では、「髪型は五分刈、撫附刈、分刈の3種類であった。明治15、6年頃から長摘が流行した」と当時流行した髪型も伝えられています。五分刈はスポーツ刈り、撫附刈はオールバック、分刈は七三、六四などの分髪のヘアスタイルであるとみられています。
なお、瀧田多三郎は、数年後に散髪処を閉じた後、研究発表のテーマにもありますように、明治10年代後半には「西洋洗濯業」、つまりクリーニング業に転じたといいます。
瀧野は、西洋理髪のみならず、クリーニングの世界でも草分けとなったのでした。