詩人で、評論家の野田宇太郎先生には、「文学散歩」というボー大な著作がある。それは、文献と足で歩いてまとめた貴重な作品である。
先生のふる里、福岡には、柳川市の北原白秋思い出の「こま床」がある。
柳川は昔、立花藩のご城下だった。
『沖ノ端に白秋が「こま床」と名づけた明治以来の床屋が一軒、いまも残っているときいた。初耳である。
翌朝、立花氏の運転する自動車で沖の端の白秋生家のあたりを久しぶりにくるりと巡り、横丁の「こま床」を訪ねた。昔ながらの軒の低い平屋で、間口三間ぐらいの理髪店だが、表には看板もない。看板など掛けなくても隣近所の人達は必要に応じてやってくるし、外来者相手の床屋でもないのがいかにも沖の端らしい感じだった。
立花氏が表口から「おるかい」と声をかけると、奥から、まだ青年の主人が顔を出した。
立花氏は昔なら殿様で、戦争までは伯爵様だったから、今でも柳川の人達は「とんさん」と呼ぶ。そのトンサンは柳川ロータリークラブの会長などしているが、決して札幌農大出の教養人ぶらず、のっぽで色の黒い、ユーモアのあるなかなかさばけた「ヨカ、とんさん」である。
とんさんの顔を見ると、若い「こま床」の主人は、ちょっと表情で挨拶して、すりっぱをひっかけて散髪椅子の二台並ぶ土間に降りて来た』
白秋が「こま床」の額を書いたゆかりの話は、とんさんが詳しくこんな話をした。
『今は、もう故人となった旧主人の名は駒吉といい、なかなか開けっ放しの性格で、立花家では毎月この駒さんを屋敷に呼んだ。先代の伯爵もこの駒吉さんが気に入りで、散髪をしてもらい乍ら、駒吉さんの世間話を聞くのを楽しみにしていた。
北原家でも、やはり駒さんを呼んだ』
明治時代の沖の端の若者たちは甚だ行儀も悪かった。そういう連中の溜まり場の一つが駒吉の床屋であった。だから、立花家の殿様も、旧家の北原家も家に床屋を呼ぶ習慣だった。殿様も、白秋も駒さんのバリカンで散髪するのがつねで、白秋にとっては懐かしい「思い出」の中の人物である。
『白秋が晩年、帰郷したとき年老いた駒さんの請いを入れて「こま床」と書いたらしいが、北原家にたずねたら、もっとはっきりしたことが判るだろう』(後略)
参考資料:「文学散歩」(野田宇太郎)