理容師は、その後も僧侶とともに外科医として発達していきました。やがて、1096年にはフランスで最古の理容組合の誕生をみます。また、1162年には「僧侶は外科手術をすべからず」というおふれが出され、理容師は理容外科医として治療を行うようになりました。(その模様は、近代理容業篇の「1.理容店の看板~赤・白・青~の謎」をご覧ください)
ところが、1416年に至って、理容外科医の中で、外科、歯科に関して未熟な者がいるということから、「重症患者取扱禁止令」が出され、その後、理容外科医と医師の間で、長期にわたって取権闘争が繰り広げられました。
ところが、それまでは理容師が外科医を兼ねていたところに、今度は医師の中から理容師になる人が現れました。
その人は、パリの医師、メヤーナキールで、1540年に理容師としてデビューしました。その上、彼の門下生である医師が続々と参入して、理容外科医はここに全盛期を迎えるに至ったのです。なお、メヤーナキールは、現在でも近代理容業の祖といわれています。
ところが、1700年代に入り、まずフランスで長い取権闘争の結果、1731年に外科医院が誕生して、理容と外科医の完全分離がはじまりました。1745年にはイギリスでも、薬学、外科、歯科などの学理が進歩して、外科医団体のつきあげもあって、とうとうジョージ2世の「理容と外科を分離させる法令」が出され、完全分離することになりました。
そのような事情から理容師は、以後、カットやシェービング、ウイッグ(かつら)などの理容技術をもって人間を美しく際だたせるという、芸術的感覚を働かせた活動へと推移していきました。