東京の旧丸ビルの地下に、渡辺研というひとが理容室を経営していて、大変繁昌していた。渡辺研は新進の才人だった。
丸ビルの理容室は、マニキュアのサービスが大変評判をとっていた。そのマニキュアの元祖は大場静子女史である。ある機会で、先生からマニキュアをしていただいた。
「あなたの爪は軟らかいですね」と先生がいった。
甘皮がかぶりすぎていて、軟らかい爪はマニキュア技術にとって難しい部類のひとつだそうだ。
見違える美しい指をのぞきながら、幸田露伴の『爪』という小品を思い出していた。
「鳳仙という翁あり。指甲(つめ)をみて人の品するの術を得たり。その鑑定の言、ほとんど百発百中して過つことなし。
或る人、ねんごろに乞いて其術を求めけるに、翁曰く、この術難しき事なし。我、中年の頃、これを或人に得て其後、自ら又、工夫を重ね積みたるまでなり。術皆、理に基づき実に貼(つ)きたることにあらねば、心さとき人は、我が一、二言聞かば十の八九を知り得べし。
爪の厚いもの、薄いもの、艶のあるもの、爪の長いもの、短いもの、縦にすじのあるものなど、と詳細に分析して、人間の運命性格を知ることができる」と、書いてあった。
だが、軟らかい爪のことは分析してはいなかった。マニキュアが男のおしゃれだけでなく、決して無駄なものでないことが、この「露伴小品」がよく教えていることに驚いた。