断髪令や各府県布告、パンフレット、辻説法などによる断髪奨励への色々な努力にもかかわらず、長年、民衆に染み込んだちょん髷という風習に対する執着には、意外に根強いものがありました。
名古屋新聞に「粋な散髪、嫌みな茶筅(ちゃせん)、髷のあるのは野蛮人」という俗謡も掲載されたりしましたが、特に、江戸時代に栄華を誇った武士は、身分や刀を捨て、さらにちょん髷を切ることは断腸の思いでした。一度に切り落とせず、徐々に髷を小さくして最後に意を決して切るという歯切れの悪い決別を「思案髷」(もしくは「残念髷」、「未練髷」)などと称していたほどでした。
そこで、中央政府、各府県は、説得に失敗した時には実力行使という手段を選ぶことになりました。
その方法には、大きく分けて2とおりありました。
ひとつは、ちょん髷をつかまえてバサバサと切ってしまうこと。そしてもうひとつは、結髪には税金を課すという方法でした。
当時の資料を見ると、埼玉県のある村では名主、組頭などが村の男子を呼び集め、「このたび男子は断髪せよという御布告があった」として、庭鋏や剃刀で皆を断髪させてしまったり、岡山県や愛知県では巡査に鋏を持たせて、結髪頭が見当たり次第ちょん髷を切らせました。しかも、それが往来の真ん中であろうと、店の奥に隠れていようと、おかまいなく捕まえてチョキンと切ったという記録が残っています。
また、滋賀県や若松県(今の福島県)や京都府では、髷税とか髪税と称して税金を徴収していました。若松県では半髪の者一人につき1年15銭でした。
なお、京都では結髪した者にではなく結髪業者に対して課税したそうです。
しかし、明治12、3年頃には地方でも7、8割は断髪となり、22年ころには頑固者以外はまったく断髪になりました。
つまり、断髪が早く行き届いた府県では、たいてい何らかの形で断髪が強制されたということがあったのです。