男性が髪型改革で混乱した影響からか、女性の中から黒髪をバッサリと切ってしまう人が現れました。
これに対し、政府部内でもこの現象を問題視して、明治5年4月5日に「婦女子のザンギリと男装はひっきょう『散髪の儀は勝手たるべし』とのかねての布告の趣旨のとり違えであるから婦女は従前のとおりにせよ」という布告を出すに至りました。
これを受けて、明治5年3月の『新聞雑誌』に「近頃、府下にて往々女子の断髪する者あり。固より我古俗にもあらず、また西洋文化の諸国にも未だ曽て見ざることにして、その醜態陋風見るに忍びず……女子は従順温和を以って主とする者なれば、髪を長くして飾りを用ゆるこそ万国の通俗なるを如何なる主意にや、あたら黒髪を切り捨て開化の姿とか色気を離るるとか思ひて、すまし顔なるは実に片腹痛き業なり」と、新風を取り入れようとする女性の積極的な姿勢に対する批評が掲載されています。
そして、ついに明治6年2月13日には「婦人断髪禁止令」が出されています。
しかし、明治18年に起こった「婦人束髪会」は、男性の断髪に対する政府の「散髪七徳の広告」と同様に、「女子の今日の結髪は、実に無駄遣いである。例えば、東京の婦女のごときは、1回の髪結のたびに上等は10銭、中等は7、8銭から5、6銭を費やし、下等といえども3、4銭は下らない。(中略)その他膏油、元結、祝儀等のために費やすお金も平均、年々1円を下らない。この他に櫛、笄等の費用があり、この分を別にしても一人につき平均4円60銭はくだらない」と結髪の不経済さを説くなどして、執拗に日本髪廃止に力を入れました。
以後、新しく開発された近代束髪は明治の女性の間に多く見られるようになり、明治21年の大阪での調査では89人中、五分の一が束髪だったという結果が残っています。