Part 1~発生から仏教伝来まで
「ひげ」と一口にいっても、厳密には「鬚(あごひげ)」、「髯(ほほひげ)」、「髭(くちひげ)」などの種類があります。
ひげは、今でこそおしゃれの要素として一般的になっていますが、かつては権威の象徴であったり、力強さを表す道具になったりもしていました。その歴史を見ていきましょう。
先史時代の人々が描いた洞窟壁画の人間の顔にひげのないものがあります。成人した男性と判る人物にひげが描かれていないということは、ひげが剃られていた(除かれていた)ということが分かります。その理由については、おそらく飲食に邪魔になっていたことや寄生虫を防ぐなどの必然に迫られたこと、さらには当時の平均寿命から考えると、ひげがあることは死に近づいたことを意味するので、それを心理的に避けるためではないかともいわれています。
ひげそりの方法については、おそらく各地で出土している石器(石刃、刃器など)が剃刀代わりとして使用されていたと推測されています。新石器時代、縄文時代、弥生時代には、このような形でひげ剃り、というよりは「ひげつみ」といった感じで行われていたようです。
飛鳥時代に入り、欽明天皇のとき仏教伝来とともに大陸から剃刀が輸入され、法具として剃髪の儀式に用いられました。
この時代、僧や一般の人もひげを剃るようになりましたが、剃刀は神聖な法具であるため使われず、箏刀(たとう・竹を削った小刀のようなもの)や鉸刀(はさみ・元支点のU字形のもの)、刀子(かたな・とうす)が使われていました。また、中国と同様に、ひげは剃らずに、けっしき(毛を抜く木器)や鑷子(けぬき)などの道具で抜いて整えるという方法が用いられていました。
Part 2~室町時代から明治時代まで~
室町時代に入ると、一般の風俗として月代(さかやき)を剃る露頭が定着しはじめました。この月代剃りに、剃刀を用いた初めての人物が織田信長だといわれています。しかし、剃刀は高価なものであったため、普通は毛抜きで月代を行っていたといわれ、頭中血だらけで苦行のようでした。
ひげに関しては、その後、公家は長ひげをたくわえないのが普通でしたが、検非違使の役人の中には威厳をととのえるために「かつらひげ」というつけひげをしたこともありました。武家もひげを抜いて禮容をととのえましたが、あごひげは冑の緒の都合からたくわえる場合が多かったそうです。
戦国時代のころから、ひげは強さの象徴として賞美されたため、大ひげを「ひげまん」などといい、豊臣秀吉もつくりひげをしたと伝えられています。以後、時代が落ち着くにつれ、ひげは一般に剃刀で剃りおとすのが普通となりました。
貞享・元禄(1684~1704)の時代になると、下郎や若衆の間でひげを生やすことが流行り、ひげの薄い者はロウを溶かし、松脂を加えて固めた「作りひげ」を紙縒りで耳にかけたり、中には墨で描くものもありました。
そのうち「奴凧」に描かれているカマヒゲのような立派なものも現われ、徳川幕府は、このひげへの関心の高まりの害を考え、1670年と1686年の2回にわたり、老人以外はひげをたくわえることを禁止する禁令を出しました。しかし、効果があまり上がらなかったため、幕府はひげを生やした者を捕まえ、刑罰を科すようになってやっとひげが姿を消しました。
この禁令によって、江戸時代にひげを生やした武士はいないといわれるようになったのです。
明治時代になって、文明開化の気運が起こると、欧米の風習をまねてひげを生やすことが再び流行しました。
明治初期のひげは、まず官員の口ひげからはじまり、続いて学者や教員たちにまで及んでいます。中期からは、ひげは単に生やすばかりではなく、その人の顔形に合うように工夫されました。
天神ひげは教育者、八字ひげは官吏、関羽ひげは豪傑好みの人たちに多かったようです。なお、日露戦争後は軍人の間で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世をまねた「カイゼルひげ」がにわかに流行しました。